我は神そのものであり、「歩く神社」である

(2024.5.11)

 

私は「神そのもの」。神との一体感、では弱い。真理は全てに優先する、は当たり前。私は神そのもの=「歩く神社」たれ。

 

自我は「五感の感覚の集積(記憶)」である。興味・遊び・音楽・絵画などのカルマ「個性」=「自我」である。「悲しみ」も「こうあるべきだ」という自我の現れ。「明想」は自我(五感)を抑える唯一の手段。

よって、自我を抑える=「明想の長さに比例する」のである。

自我を手放すのは「自分との葛藤」である。自我にフォーカスするのではなく、明想で「我神なり」に集中する。

 

明想中に、暖かい、明るい、と感じられるのが良い明想。

自然の中で、目を開けたまま、ゆったりしている状態で、「自分は神であるか?」と自問する。心の中で「そうだ!」との声が聞こえたら「自分の神我」が答えてくれたことになる(神との一体)。

 

日常での約束や決めたことは「神との約束」であるから、絶対に守るべき。

それが、素直に生きることであり、正直に生きることに繋がる。

 

3階から1階を見るように「神の視座」を持つ。全体を「愛の波動で包み込む」「愛のエネルギーを放射する」「優しい言葉・行いで愛を表現する」。

自分の言葉にどういう意識を持っているのか?自分は常に神である、と自覚する、自省する。

 

『最も偉大なものはすべてのものの僕である』→これが我々の仕事である→相手への「奉仕」

 

常に「中心は神である」。日常ではその都度人間にはなるが、すぐに神我に戻るくせをつける。

 

「神我が神我自身に気づく」実在するのは神のみ。五感では神には気づけない。

 

神は「全知全能」。神を現実に現す、仕事に活かす。収入にする。→神我を使わないのはもったいないこと

 

明想で五感を止める(見えない・聞こえない)→大脳では認知しないことが直接「ハート」に記憶される。